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保育者が「人権」を学ぶってどういうこと? 東香会的“子どもの権利”へのアプローチ 【研修会レポート】

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2022/08/17

しぜんの国保育園では、日々の職員会議の中で保育について考えを深める取組みを重ねています。今年度は、子どもの主体性について「保育的発達論のはじまり 川田学(著)」をみんなで読み解いて学び合っています。

今回、「子どもを尊重」するというテーマについてもっと理解を深めたいという声が上がり、東香会理事長の齋藤紘良(以下、みんなの呼び方で“紘良さん”)による研修会が企画されました。

タイトルは「保育者は人権の温かみをしっかりと感じているか ー保育の中で子どもの権利を大人も含めて考えるー」。2021年12月に一般社団法人「子どもの文化学校」で紘良さんが講演したものです。一見難しく感じられる「人権」や「子どもの権利」ということについて考えていきました。

この日はしぜんの国保育園と、ののはな文京保育園の保育者がリモートで参加しました。

「今日の研修は、王道のいわゆるスタンダードな人権を学ぶものではありません。オルタナティブな独自の人権観についてお話しします。子どもの権利を子どもだけの問題として考えてしまうと圧が強くなってしまうし堅苦しく感じられてしまいます。なので、わたしたち大人も含めて考えることが自然であり、難しい人権というものに向き合いやすくなりますよね。」

「楽しい」感情を思い出し、それを客観的に捉えてみる

まずは参加者それぞれが、楽しいという感情の記憶で一番古い記憶を辿っていきました。そしてそれを他の参加者に共有していくことで、楽しい記憶を言語化して、客観的に捉えていくということを体験しました。

けん玉が大好きな男の子が、コスチュームを作ってけん玉になりきったり、手を汚しながら土を掘るのに熱中したりといった、日々の保育の中で見かける子どもの楽しさに立ち返り、「子どもの楽しさは、なりたい自分になれる幸せから生まれる」というヒントが提示されました。

セッションが子どもたちの安心を生み出す

長い年月をかけて、東香会の保育は変化を遂げてきました。大人が中心となって動かす保育から、プロジェクト的な保育へと変わり、そこに生まれるダイナミズムを意識したことで「流動する主体=群れの保育」へと展開していきました。

群れの保育を支える要素の一つとして、しぜんの国保育園では「セッションの時間」を大切にしていますが、これは「子どもの権利」とも大きく関係しています。セッションの時間は1日に一度は設けられていて、子どもが気持ちを出す、あるいは出さないことことを表明する機会です。自分の意思を出せる時間が確保されていて、その権利が認められているということを子どもが自覚することで、安心感につながります。その安心感があるからこそ、子どもたち自身が表現方法を模索し始めます。

子どもの時間と、大人の時刻の違い

子どもの権利を考えるにあたって、大切なことの一つに子どもの「時間」と大人の「時刻」の違いがあります。「子どもが感じているリラックスした感覚=時間」と「スケジュールや期日を意識した思考状態にあるときの感覚=時刻」は大きく異なります。

保育者が子どもの「時間」を大切に保証することは、子どもの権利を尊重することにもなります。この下地があることで、子どもを介して保育者や保護者もつながって、シームレスな関係があちこちに生まれて境界線が曖昧になり、それがまた次の幸せにつながっていきます。

 

子どもの人権を守ることで、大人も幸せになる

「現在の日本は人口が減ると不幸せになるという未来しか描けていない社会だけれども、人権を大切にする人が増えれば、幸せになる人が増えます。子どもの人権が守られることによって大人も幸せになれるのではないでしょうか。」という紘良さんの言葉で研修会は締めくくられました。

子どもと大人の「人権」に関する様々な視点が波のように押し寄せ、海のような広い視野で保育について考える機会となりました。


研修後のアンケート「保育の中で「子どもの権利」を意識したシーンを教えてください」に対して、参加した保育者から様々なエピソードが寄せられました。それに対する紘良さんからの応答とともに、いくつかご紹介します。

1つ目のエピソード
まちあるきに出かける中で”白線から出たら危ない”というやりとりを見かけた時のことです。5歳児は車が来たら危ない、車道側を歩くのはけやき組(5歳児クラス)と主張。しかし、白線を歩きたいという気持ちがある3歳児。なかなか気持ちが交わらない2人がいました。

私はその様子をじっと後ろから観察。”どうしたらいいかな、2人の気持ちがすごく分かる。ちょっと この並行している2人の気持ちに乗ってみよう”という気持ちでした。危ないから内側へ誘導しようとする5歳児に対し、「ここを歩きたいの。橋みたいでしょ」と話す3歳児。そのうち、どうしよう…と悩む5歳児と目が合いました。どうする?と私も首を傾げてみると、ふと彼はじっと3歳児の姿を見始めたのです。手を離し3歳児の後ろにつく5歳児。表情は柔らかく、小さな声で「橋みたいかも」と呟いたのです。それを見て3歳児も「ここははみ出ちゃいけないの」と話が弾み、いつの間にかその姿を見ていたまわりの仲間たちもついていくようになり、自然と1列に。

最初、その場には2人の気持ちがあり、なかなか交わらずにいましたが、お互いの気持ちに変化があり、さらにはその2人に自然と巻き込まれていった仲間たちがいて、その2人の姿や気持ちの揺らぎに惑わされる私がいて…。最後には全員がもう少し遠回りしてみようか思えるようなゆったりとした時間を感じていました。

(紘良さんより)
まさに、”並行している2人の気持ちに乗ってみよう”という保育者の動機が、「意思と行動が環境に影響を加えられる保障」を促していると思います。権利の保障とはそういうことです。

 

2つ目のエピソード
「子どもの権利」について考えるとまず食事のシーンが思い浮かぶ。座る席にこだわるTくん。偏食でどうしても白いご飯しか食べることができないAちゃん。野菜サラダを残しているけれどどうしても鶏肉のおかずをおかわりしたいKちゃん。もうほとんどの子が食べ終わっていてそろそろ部屋の片づけをしたいけれど、もう一回スープのおかわりがしたいSくん。

ひとりひとりの子どもの思いにどう応えていくか保育者によっても考え方は少しずつ異なるところだが、しぜんの国保育園全体として子どもの権利を大切にしている考え方が顕著に表れている部分だと思っている。特別に別メニューで白いご飯を出してもらって美味しそうに食べていたり、希望通り鶏肉のおかわりをもらった後で、食べないと言っていたにんじんを食べてみておいしかったと言っていたり、あと1杯のスープをもらって満足して片付けを手伝い始めたり、そんなシーンが次々と思い出される。

(紘良さんより)
食べられない、食べたくないのはなぜかを考える、あるいは話すことができる場があるのがしぜんの国の良さですよね。大人の想いの根底にあるのは「美味しく感じるものが増える方が幸せ」という共通認識があるからで、「残さず食べよう」の根底にある願いも始まりは邪なものではない。 大人がその共通認識を感じ合えて話し合えてからこそ、子どもたちとも幸せを共有できる感覚になっていく。ですから、大人も含めて幸せを感じることを目指すのが民主主義であり、それを支えるのが、人権という「幸せを話し合える場に参加できるチケット」なのだと思います。

 

3つ目のエピソード
午睡時に布団に横になりながら歌を歌い始めた1歳児の女の子。周りにはすでに眠っている子がいて、その子が一番最後まで起きていた。周りの子が起きてしまうから…と私はそちらに気持ちが向いてしまい、「しーっ」と伝えようかしばらく迷っていた。しかし、あまりにも心地よさそうに歌うので、私も少しの間一緒に歌おうかと、小さい声を出して歌ってみる。すると、私の声を聞いて嬉しそうな表情を浮かべながらその声に合わせて女の子の歌声も小さくなっていった。そして、しばらくするとその歌声もゆっくりとなり始め、声が聞こえなくなったかと思うと、眠りについている姿があった。

周りの状況があったが、横になりながら歌いたいというその子の気持ちも伝わってきたため、迷いながらも私も歌ってみた場面。「寝ているから静かにね」と伝えていたとしても、最終的に眠りにはついていたとは思うが、眠りに入る時の気持ちよさは違ったのかなと思うと、その時一緒に歌ってよかったなと感じている。

(紘良さんより)
人権の温かみを感じている瞬間ですね。子どもの人権とは、大人によって子どもは守られ、また、子どもによって大人も守られているという相互の平衡関係がなければ成り立たない。 このエピソードでは、1歳の子の歌いたいという意思は保育者によって守られ、一緒に歌ってみたら何か変わるんじゃないかという保育者の挑戦(あるいは思慮、あるいは哲学)はその子によって守られた。関係性の相互作用によって人権の温かみが保たれたといえますね。


参考書籍 
保育的発達論のはじまり: 個人を尊重しつつ、「つながり」を育むいとなみへ /川田 学 
世界史の構造 (岩波現代文庫) /柄谷 行人 
児童の世紀 (冨山房百科文庫 24) /エレン・ケイ 
幼児から民主主義: スウェーデンの保育実践に学ぶ /エリサベス・アルネール 


これまでの研修については、タグ #group-study をご覧ください。