「ニューロマイノリティ:発達障害の子どもたちを内側から理解する」編著者・青山誠インタビュー【前編】
当事者・支援者・研究者が考える、発達障害児の体験世界から見えてくること
Aoyama, media, press, small pond, toukoukai
2024/03/26
最近よく耳にするようになった、「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」という言葉。これまで一括りにまとめられていた発達障害を、個人の特徴や個性として見る考えが、企業や組織で広がりつつあります。
そんななか、2024年2月に発売した書籍「ニューロマイノリティ:発達障害の子どもたちを内側から理解する」(北大路書房)では、「ニューロマイノリティ(神経少数派)」という言葉を用い、当事者、支援者、研究者が一体となって発達障害理解をより深める試みが行われています。
そもそもニューロマイノリティとは何か、本書を制作したきっかけや、込めた想いについて、この本の編著者である、保育者で社会福祉法人東香会 保育統括理事(上町しぜんの国保育園副園長、ののはな文京保育園アドバイザー)の青山誠へのインタビューをお届けします。
(インタビュー・テキスト・編集:秦レンナさん)
「ニューロマイノリティ」とは何か? いろんな角度から考えてみる
――近年、「ニューロダイバーシティ」という言葉を聞くようになりましたが、「ニューロマイノリティ」は初めて聞く言葉です。これはどういった考え方を指すのでしょうか?
この本の冒頭で、臨床心理士・公認心理師の村中直人さんが詳しく書いてくださっていますが、ニューロダイバーシティ(ダイバージェント)と、ニューロマイノリティの違いは、「定型」つまり「人の標準的なあり方」という発想が、根底にあるかどうかだと思っています。例えば、1人だけ黄色い服を着ていて、他のみんなが黒い服を着ていたとする。そうすると、黒い服が「定型」や「ふつう」になり、これを基準として違いのある黄色い服の人たちが「それ以外」「ふつうじゃない」とみなされがちです。
そうではなく、単純にどちらが多いか少ないかの問題なのではないのか、という投げかけが本書にはあります。村中さんは、「今の社会の多数派の平均」を前提とした人の姿を「定型」とすることに強い違和感があると問題提起をしています。そもそも全人類はニューロダイバージェントであると言う考え方をすれば、「ニューロマイノリティ」は、たまたま状況的に結果として少数派に属してしまっただけなのだとも言えるでしょう。
――編著書「ニューロマイノリティ:発達障害の子どもたちを内側から理解する」をつくることになった背景についてお聞かせください。
一番にあったのは、保育以後に起こる分断の問題でした。保育以後、学校というものを前にしたときに、子どもたちは「ふつう」か「ふつうじゃない」かに急に分けられ、分断されがちです。これまでも、園から笑顔で送り出した子が、学校に入学して、食事もとれなくなり、憔悴しきっていく姿を何度となく目にしました。その度に怒りや悲しさが込み上げてきました。
保育では成り立っていたものが、その後の社会で成り立たなくなるのはなぜか。なぜ分断された私たちが再び出会い直すことが難しいのか。当事者、支援者、研究者などさまざまな視点から考えてみたいと思ったのです。
「内側から見る」ことの大切さ。コロナ禍で感じたいき過ぎた管理意識への危機感
――「内側から理解する」とはどういうことでしょうか?
保育には、「子ども理解」という言葉があります。その基本が「見る」と言うことです。保育者が子どもを「見る」というとき、保育者以外のおとなとはちょっとちがう見方をしています。
例えば、今日は寒いだろうからと、親が子どもに厚着をさせますよね。これは子どもを対象化して見ている(もちろんそれが悪いわけではありません)。つまり外側から見て判断しているわけです。
でも保育者は、その子と一緒に園庭を走り回って「もう暑くて上着なんて着ていられないよね」と、言いあう。その子がそのとき生きて動いて感じている、この世界の温度や自分の体感を、重なりずれながら見ているからです。この保育の中では当たり前にある風景が、「内側から理解する」ことにもつながると感じます。
――逆を言えば、今の社会は、「内側から見る」ことをしない世界だと伝えたい気持ちもあったのでしょうか。
「こどもまんなか」という言葉がありますよね。権利の目を当てるという意味では、子どもを対象化するのはときには重要なことだとも思います。だけど子どもからすれば対象化されたくないときだってあるはずです。
コロナ禍をきっかけに、社会がいわばより学校化し、保育現場にもその影響が及んできています。「不適切保育」という言葉もよく聞くようになりましたが、保育園には、部屋にカメラを設置しろとか、保育者を1人にするなといった連絡がありました。安心安全のためにと大人同士、また子どもたちを管理統制することが、子どもにとって本当に幸せなことなのでしょうか。社会全体が相互監視と、管理に満ち溢れれば、マイノリティの声は、一層聞こえにくくなっていくように思います。保育現場にいながらそんな危機感も感じています。
保育現場で感じる、発達障害児を取り巻くさまざまな問題
――発達障害は、さまざまな特性があり、誤解されていることも多いと感じます。青山さんの感じていることがあればお聞かせください。
日本では早期発見・早期療育ということに力を入れていて、ちょっとでも「あれ?」と思った子がいれば、とにかく広く網をかけておいて、「漏れがないように」早期の療育につなげていきます。これにはもちろんいい面もあって、例えば、親御さんが子供を強く叱ったり、自分の育て方のせいだと責めてしまったりするのを防ぐことにつながります。一方で、「この子はふつうじゃない」と、まるでマークをつけられたように感じられてしまうことも起こりえます。
例えば3歳児健診では、絵本を前に「これなあに?」と質問し、その子がどう応対するかをみることがあるのですが、子どもからしたら知らない人に答えたくないということだってあると思うんです。もちろんそれだけで判断されることはありませんが、言いたいのは仮に状況的、一時的な振る舞いで、その子は発達に問題ありとなってしまうとしたら、それが本当にその子のすべてだと言えるだろうか、ということです。
人の振る舞いというのは、周りの人との関係性や環境に大きく影響を受けるものです。保育の環境や保育者の関わりによって、発達障害の特徴と言われるような行動が強化されてしまうことも、もちろんあるでしょう。だからひとりの子を「発達障害児である」とすることで、つまりはどうしたいのか、私たち関わるおとなのほうがいつも問われていくのだと思うのです。
――「普通」を決めてしまったほうが、さまざまな面でコストがかからないということなのかもしれませんね。
「コスト」をなにとするのかにもよりますが、そう思います。例えば園に入ってから、この子には保育者がもう1人サポートに付いた方が、周りの子との関係性をもう少し丁寧に豊かに橋渡しできるとか、その子が被るかもしれない危険を防ぎやすくなるという場合があります。
これを保育行政的な用語では「加配」と言うのですが、園から人件費の補助を申請するときに、「この子には障害がある」といういわば「証明」が必要になる。療育に通っているか否かというようなことが、その「証明」になるわけですが、そこで保育者が保護者の気持ちや状況にていねいに見ずに、雑にコミュニケーションをしてしまえば、その親子はとても傷つくことになるでしょう。
本来は、「障害かどうか」という「判定」よりも、その子の全体を見て、今、自分たちがどうできるかと考えるのが保育だと思うのですが、保育者側の関わりや見方にしなやかさや柔軟性がないと、結局その子を一方的に「ふつう」から弾いてしまうことになるんですよね。
後編では、保育後の分断はなぜなくならないのか、私たちができることとは何か、引き続き保育統括理事の青山誠に聞きます!
後編はこちら
写真:大川真実(上町しぜんの国保育園)
福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉マガジンハウスに掲載いただきました
発達障害のある子どもの世界はどうなっている? 当事者や傍にいる大人が“内側”を綴る書籍『ニューロマイノリティ』(横道誠・青山誠 編著)
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保育の「初心」連続講座 2024(Peatix)