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上町しぜんの国保育園 第三回 「オトナなナイト」写真家の繁延あづささんをお迎えして

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2019/10/25

「オトナなナイト」は、青山誠園長が主宰する、大人限定の座談会イベント。「大人も子どももぐちゃぐちゃな方が楽」、という青山園長の考えから始まっています。

青山:同質性の高い集団にいると、ちょっとした違いがすごく目立つ。幼稚園とか保育園では、3歳児クラスとか“年長さん”とか、同い年のクラスで区切ることが多いです。でも現在の都市部の保育園では生まれてまもない子達が、働いているぼくらよりも長時間保育園にいることが多い。そうなると、どうここで過ごすか、を考えたとき、やっぱり居て楽な場所がいい。年齢も個性もなるべく多様な、一見ごちゃごちゃした場のほうがいいんじゃないかと思っています。(保育園で使っている)ちゃぶ台も、角がないので寄り合いやすいんですよね。子どものまわりに保育士という1つの役割の人間しかいないのもどうなんだろう。色んな大人がいて、子どもたちが困った時に、各々頼れる人がいる、というのがいいと思っています。

繁延さん:この保育園では、年齢別のクラスではなく、異年齢で保育士の名字を配した「家」をクラスのような集団単位にしていると聞いて、興味深く思いました。人間は、子どもの手が離れる前に次の生殖活動をするという、数多く産むよう進化した生き物。だから、人類の歴史はずっと預け合って集団保育していたと聞いたことがあります。そう考えると、もしかしたらこの園のような感じだったんじゃないかと思って。

その趣旨で、地域の人を中心にいろんな大人が集う場作りをしているのです。前回までとは趣向を変えて、まずはゆるりと軽食をつまむところから始まった今回のオトナなナイト。

初めましての人、お久しぶりの人、職員も混じってお喋りし、和んだ雰囲気の中、ゲストで写真家の繁延あづささんのお話が始まります。出産の場面を撮影し、写真を通してその瞬間を物語る「うまれるものがたり」という写真集でご存知の方も多いかもしれません。現在、ウェブマガジン「あき地」にて、山と獣と肉と皮を連載されています。この連載は、移住先の長崎で狩猟生活しながら、生きること、殺すこと、食べることに思索をめぐらすルポタージュとなっています。

青山:完結しているものは美しいけれど、この連載では、要所要所で完結すること自体をすごく繊細に拒否している感じを受けて、今回は現在進行形の『山と獣と肉と皮』をメインにして色々話せたらなあと思います。

繁延さん:私は8年前ぐらいに一家で長崎に引っ越しました。(写真を見せながら)これが私の家ですけど、坂の町と言われるように、山の上まで家が立ち並ぶ不思議な風景があり、車で入っていけないようなところがたくさんあります。細い道で且つこんな高いところだと、人とすれ違うときは避け合わないといけなくて、何となく「こんにちは」、とか言わざるを得ない。実際そうやっていつも会う人の中に、オレンジとか赤とか金色のネックレスとか 笑、何者だろう?このおじさん、という人がいました。

ある時、どピンクの服を着たそのおじさんを見て、「いつもおしゃれですね」、と声をかけました。猟師と聞いて、派手な服を着ていないと危ないから、ということがわかりました。それ以降、肉がドーンと家に届くように。引っ越したばかりでお金もないし、貯金も減っていっていたので、食料をもらえるだけでもありがたい!みたいなところがあって、すんなり肉を食べることに馴染んでいきました。

料理をしていると、スーパーで並ぶ肉とは明らかに違う、生き物の形がある肉で、受け取るときも猟の様子を聞いて、その時を想像させられる肉で。そのうち、山に行ってみたいなと思うようになりました。

初めて狩猟について行った時、(その時罠にかかったのが)若いオスだ、と聞いて勝手に擬人化してしまい、息子と重ねてちょっとドキドキしたり。最後までこんなに必死に生きようとしている動物を、これから殺すのか、と。それまで激しく暴れ抵抗していたものが心臓を突かれ全く静かになって、“魂が抜けるようだ”、と感じました。おじさんが猪の耳の裏をナイフで刺して、肉が見えた時、それは見覚えがあるもので、“美味しそう”、って思いました。その時、さっきまでかわいそうと思っていたのに、こんなに早く美味しそう、と思う自分の気持ちに混乱していました。

近くに沢があったのですが、その場でおじさんがあっという間に頭を切り落として、“脳の裏側がこうなってるんだ”、と不思議な感じで見ていました。その後、全身の毛皮を剥ぐのですが、ナイフを入れたら血が飛び出すのかと思ってたら、全然そんな感じじゃなくて。なんかこう、毛皮の洋服を脱いでいくようにペろーんとなって。私たちにとっての衣服みたいな感じでした。

繁延さんの連載 ウェブマガジン あき地『山と獣と肉と皮』に、その時の様子が綴られている。

「生き物」から「肉」になるまでの間を、どこまで見せるか

繁延さん:お腹が開かれて初めて内臓を見たとき、“こんなに詰まってるんだ”、って思ったんですね。この時はギリギリまで内臓の写真を出すか迷って、結局出すことにしました。そもそもこの連載に対しても、今まで自分がやってきたのとは違うものを見せてしまうことに怖さがあったんですけど、自分が見て自分がシャッターを切ったものだったので、見せることは必要だと思って、公開しました。みなさんの感想も聞いてみたいです。私の判断が合っていたのか知りたいな、と。

青山:僕はすごく怖がりで、ホラー映画も嫌だし、グロテスクなものも嫌なんだけど、でもなんだか、率直に、意外に綺麗というか。もっと引いちゃうと思っていたけど。それが感想かな。

参加者:私も綺麗だと思った。石膏のルネッサンスの像があるじゃないですか。なんかそういうのを想像しました。

繁延さん:写真の方が伝わりやすい情報もいっぱいあるので、ここは写真に任せたいなとか、原稿で行きたいなとか、迷うことがあります。

参加者:こんなにびっしり入っているものが、綺麗に収まってるんだなって思いました。

繁延さん:今思うと、生きてるところと肉になるところの「間」がそこにあって、それを多分、夢中で見たんだな、と思います。ここを連載でも見せていくっていうのがやりたいな、と。

 

青山:編集者としてはどうでしたか?

編集者:ずっと繁延さんと一緒に仕事したいと思っていて、今回こういう形の連載でご一緒できているのですが、僕は個人的には全然怖いとか思わず、抵抗がないんです。写真を最初に拝見したんですけど、皆さんがおっしゃる通り、死んでいるんだけど生命力に溢れている。美しいなあと思って。繁延さんに相談された時に、全然そこは気にならなかったですね。生き物の肉体として出すのはいいのではないかなと。

繁延さん:私たちは自分たちの肉体の中身なんて見たことがないけれど、これを見ることによって、こういうの(臓器)が私たちにも入っているんだな、と。ちょっと匂いもあって、でもくさい、というわけじゃなくて、生き物ならではの匂いがしていました。

心臓をよくもらうんですけど、この写真では心臓をひと突きしたので割れていました。おじさんに内臓触ってみ、って言われて触ったら、めちゃくちゃ寒い時だったんですけど、生きている私よりもその内臓の方が暖かくて。不思議ですよね。生きているものより死んでいるものの方が温かいというのは。うっかり右手で触ってしまって、シャッター触れなくなりましたけど 笑。

生活の中に根付いている死生観

青山:腐る、ということについて聞きたいんですけど、今、何でもかんでも保育園は除菌除菌、という風潮がある。常在菌もいるわけで、生命感とリンクしてしまっている気がして。子どもに怪我がないなんて、あり得ないことなのに、怪我がないようにしようとか。そこだけやっていると、やがて老いて死んでいくとか、腐る、ということが、あり得ない世界として想定されているような気がすごくするんです。いつも仕事をしていて、難しいな、というか。腐るということについては、猟ではどう感じましたか?

繁延さん:山にもタイムスリップ感があって。私たちは腐っていくのをいかに普段見ていないかを実感しました。最新の連載では、腐っていくいくつかの段階を描写しているんですけど、ウジが湧いたり、目玉が落ちたり、死んだ後のグラデーションを山で見かけることがあって。でも、腐っていくことが悪いことではない。腐るって人間が定義している言葉で、むしろ他の生き物それぞれに「おいしい」瞬間がある。人間とウジ虫は食べるタイミングが違うだけ。すべてが分解で、再生していくことなんだなと。山では食べられたり腐ったりで100%分解されるから、ゴミ0だと気づくんです。でも、私たちは毎日大量のゴミを出して、腐る前に燃やしてて、あれ?と。人間の方がヘンなのかなと思ったりもします。

青山:保育園なので、当たり前ですがドアに鍵があるんです。勝手に子どもが出ないようにという意味で。昼寝もそうなのですが、認可園の制度の中では、顔の向きまでチェックする。同じ昼寝は昼寝でも、制度のもとでは景色が変わってくるわけですね。

繁延さん:死なないように、というのがあるのかもしれないなあ。

保育は環境や条件だけに依拠するものではない

繁延さん:「りんごの木」(青山園長の以前の勤務先で認可外の保育施設)でいうと、曖昧なものを曖昧にしておくことがいいなあと思っていて、その時のその状況のその場の人たちが考えていることで物事が進んでいって、“こうすべき”、みたいなものがないのかなと。

青山:原則こう、っていうのはあるんですけどね。今の話が繋がるんですけど、保育者っていうのは一人ひとりがそのときの状況で判断しなければいけない。その軸になるのは最終的にはやはり保育者それぞれの個だと思います。その上で、子どもという他者に“自分を押し付けない”、「自分はこう思う」は伝えるとともに、子ども一人ひとりの「あなたがどう思ったのか」ということを聞ききるということ。そのことが軸になっている。

繁延さん:私は「りんごの木」は面白いなって。子どもたちがどんな風に対処するのかっていうことに興味がある。1日かけて喧嘩が終わらないこともあるし、1日かけて歩み寄っていくこともある。こうしましょう、という指導がない中で、どうなっていくかを見ていきたいと思って通っていました。大人もそういう介入をあまりしない。でも一方で、個人としての感情で怒ったりもする印象で、それを子ども達が受け取っているのも興味深かった。そこにずっといたのに、なんで青山さんここ(しぜんの国)にきたのかなって。

青山:喧嘩について言えば大前提として、“僕の喧嘩じゃない”、というのがある。関わる、関わらないで言うと、全力でコミットして関わっている。でも、そこは一緒にいるだけ。“あなたが悪い”、とかの直接的な介入じゃなくて。

子どもを見るということについても、つきっきりでついていることが「見る」ではない。少し距離があっても“実は見ている”っていうか、先程のお話でおじさんが山に入れば、いろんな「印」が見えるのと一緒で、僕ら保育者も見ていないようで見えている。もっと究極的なこと言うと、じっと見てなくたって大丈夫なような「フォース」で見ている 笑 スターウォーズみたいな。ここは認可園だからセキュリティには細かいんですが、僕がいた愛知の幼稚園では門を開け放っていたのですけど、子どもって全然出ていかないですよ。3年に1人ぐらい出ていく子もいるけど 笑。

先程からあづささんが何度かおっしゃっている「りんごの木」。自分としては辞めたというわけでも入ったという感覚でもなくて。入ったときも1人だし、出てった時も1人だし。ここにいても感覚的には変わらない。次の人たちと一緒に保育をやっていきたい、というのもあった。“これ認可外だからできるんでしょ”、って言われることも「りんごの木」にはたくさんある。認可だって同じだし、要はやりようでしょ?

都心とちがって、いろいろな地方にいくと園庭広くていいなぁとか、遊ぶところいっぱいあっていいなぁとか、それは正直思いますよ。でも地方の園の人からしたら「こっちは人手がいなくて困るんですよ」って。認可だから、認可外だからとか、都心だから地方だから、ってそれは環境の条件としては確かにあるかもしれない。でもそれは仕事の出発点であって結論じゃないですよね。要は、どんな条件下でも、自分たちがなにをやりたいのか、それをやろうと思うか思わないか、かなぁ。

話が色々変わりましたが、参加者の人たちも、今の話を肴に、ちょっと飲んだり食べたりして何か話したいことがあれば話してみてください。

ちゃぶ台を囲み、山も保育も、良い・悪いなどの答えを出すためのところでは無い、という共通項があるという話が出たり、都会で育つ子どもには、命の「間」のようなところがが抜け落ちていて、そこの部分をどうやって取り返すべきなのか?といった議論が出たりで、大いに盛り上がったようです。

次回の「オトナなナイト」も、どうぞお楽しみに!