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「今ある子ども観を見直し、あらゆる角度で子どもの可能性を考える」スコラ・ルーム#3 イベントレポート

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2025/07/18

社会福祉法人東香会では、自らの学びを社会に開き、法人の内外に関わらず保育や子どもに関わるあらゆる方々に向けたさまざまな形の研修を実施しています。
他領域で活動する方々をゲストに招いてのトーク&ライヴを通して、保育を越えた集いと混ざり合いの場となることを目指しているのが保育の自由研究セミナー「SCHOLA GARDEN(スコラ・ガーデン)」です。
そのスピンオフイベントである「schola room(スコラ・ルーム)」第3回を2025年5月30日(金)に渋谷東しぜんの国こども園の子育て支援スペース「BUTTER」で開催しました。

これからの社会を考え探究するコクヨ株式会社のオウンドメディア「WORKSIGHT」の編集長・山下正太郎さんと東香会理事長・齋藤紘良が、2025年2月発刊のWORKSIGHT26号「こどもたち」を軸に、子どもとともにある社会について対談し、ミュージックビデオを中心に映像作家としても活動の幅を広げるミュージシャン・井手健介さんのライヴパフォーマンスの他、3人による鼎談も行いました。

本レポートでは、山下正太郎さんと齋藤紘良の対談、そこに井手健介さんが加わった3名での鼎談の一部抜粋をお届けします。


登壇者:

山下 正太郎(やました しょうたろう)
ヨコク研究所 所長 / ワークスタイル研究所 所長 / WORKSIGHT 編集長
コクヨ株式会社にて、2011年、グローバルでの働き方とオフィス環境のメディア『WORKSIGHT』を創刊。同年、未来の働き方を考える研究機関「WORKSIGHT LAB.(現ワークスタイル研究所)」を設立。2016-17年、英ロイヤル・カレッジ・オブ・アート ヘレン・ハムリン・センター・フォー・デザイン 客員研究員。2019年より京都工芸繊維大学 特任准教授を兼任。2020年、黒鳥社とのメディアリサーチユニット/メディア「コクヨ野外学習センター」を発足。2022年、オルタナティブな社会をリサーチ&デザインする「ヨコク研究所」を立ち上げる。
井手 健介(いで けんすけ)
東京・吉祥寺バウスシアターの館員として爆音映画祭等の運営に関わる傍ら、2012年より「井手健介と母船」のライヴ活動を開始。
2015年夏、1stアルバム『井手健介と母船』を発表する。
2020年4月、石原洋サウンドプロデュース、中村宗一郎レコーディングエンジニアのタッグにより制作された、《Exne Kedy And The Poltergeists》という架空の人物をコンセプトにした2ndアルバム『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists(エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト)』をリリースする。連作として『エクスネ・ケディの並行世界』、『Strolling Planet ’74』を発表。
近年では、8mmフィルムを使った映像制作も行い、坂本慎太郎、カネコアヤノ、KID FRESINO、Bialystocks等のMVを監督している。
齋藤 紘良 さいとう こうりょう
社会福祉法人 東香会 理事長
1980年生まれ、天秤座。165cm。58kg。専門は子どもが育ち暮らし老いて死んで次に向かうための環境や文化を考えること。保育施設の運営、500年間続く祭りの創造、寺院の再興、映像番組などへの楽曲提供、そして雑貨と電子楽器を駆使したパフォーマンスなどを行なっている。発表音源に『MIRAGE』『narrative songs』(CD、spotify etc.)、著書に『すべて、こども中心。』(カドカワ)などがある。全国私立保育連盟研究企画委員、大妻女子大学非常勤講師、簗田寺副住職。

子どもを「社会に大きな影響力を与える存在」として見直す

山下さん:
子育てをする一人の親として、最近ふと根源的な問いが湧いてくるんです。子どもの生きていく環境が本当にハッピーなのか、と。ニュースを見ると今の子どもの置かれている状況は決して良いものじゃなく、しかし、もっと良い可能性があるはずだ、と思ったのが「こどもたち」号のきっかけです。

子どもを未熟な存在として扱うのではなく、むしろ現実社会に大きな影響力を与える存在として見直すことができるんじゃないかと考えました。近代以降、今ある「子ども観」が我々の意識の中に深く刻み込まれているわけですが、そこをもう一度掘り起こし、昔の民俗史的な遊びや言葉から何か参考になる視点がないか、というところがこの本のポイントになっています。

明治期に日本を訪れた西洋人が日本で一番感動したことのひとつが「子どもの素晴らしさ」だったそうです。イギリスの外交官ラザフォード・オールコックが日本を「子どもの楽園」と述べ、そのテーマで著作を残しています。中世〜近代ヨーロッパでは、子どもは「小さな大人」というようにすぐ労働力になることを期待されて、大人と同じような形で扱われました。

転換となったのは近代後期に国民国家の誕生の過程の中で、子どもはかけがえのないものというような「子ども観」が形成されていったことです。子どもにある種の可能性を見出した人たちがいてその点が面白いところかなと思います。

代表例は、民俗学の始祖である柳田國男です。彼が注目したのは、子どもが持っている言葉を作り出す力で、その能力が議論を通じて社会が統治される新しい民主的な社会を支える力になると言い、そこに子どもの可能性を見出しました。
子どもはそういう意味では新しいものを作る存在と同時に、七歳までは非常に霊界と近い存在だと昔捉えられていました。

昔は子どもが亡くなりやすかったことに加え、何気ない言葉や自然を察知する能力が非常に鋭敏であると考えられていたことから、霊界から現世に戻っていく一つの区切りとして七五三が生まれたとも言われています。

その他、現代においても子どもの創造性に着目をして本の中でドイツのライプツィヒにある「本の子ども」という出版社の紹介や「世代」という問題を大きなテーマとし、それを考えるためにティム・インゴルドという人類学者の著書『世代とは何か』の話をするなどをして子どもの特集を組みました。


(左)東香会 齋藤紘良 (右)ヨコク研究所 山下正太郎さん

「家庭」と「保育園」の管理的な境目を緩めていきたい

紘良:
WORKSIGHT26号「こどもたち」で特に面白かったのが、子どもと関わる保育者たちが当たり前に捉えている保育の目線は世間から見ると当たり前ではないことです。外からの子ども像を見て、初めて知るということが多々あります。
自分たちは専門性を深めている意識でいても子どもを見る目線がガラパゴス化してしまうこともあり、この本は保育者が読むと、自分たちが見ている目線を緩やかにほぐしてくれるマッサージ機のような本だと感じます。
山下さんがこの本を特集されて特集される前と後で何か子ども観が変わりましたか?

山下さん:
そうですね。毎日保育園の送り迎えなどをしている中でこの本を作っていたんですが、これまでは、どこか管理する感覚で子どもと向き合っていたなと痛感しました。
この会場の渋谷東しぜんの国こども園をお迎えの時間帯に見学させてもらったのですが、保育者と子どもと保護者が境目なく混ざり合っているフロアがあって面白いなと思いました。一方、私が利用する保育園に迎えに行くと「今日何をした」と申し送りとともに、子どもがまるでモノのようにバトンパスで受け渡されている。そんな日常のなかで、自分も子どもを管理対象として扱っていたことに気づかされ、本当に反省しています。

紘良:
子どもたちが登園時に親と急に離れて、ここから先は保育園の世界、前は家族の世界という境目のようなものがあることは僕も感じています。
その境目をどうにか緩やかにクロスフェードしていけないかなと思いました。

この本の冒頭にラザフォード・オールコックの1863年の言葉「至る所で半身または全身裸の子どもの群れがつまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわす。まさしくここは子どもの楽園だ」があり、こういった世界が保育で実践したい理想のひとつです。
”子どもたちがつまらぬことでワイワイ騒いでいる”。しかし、このつまらぬことは内側に入ってみるととても楽しいことである。その楽しさを僕らはもっと知りたいから保育の場にいるのですが、これは保育者たちだけの目線ではなくて、社会全体で子どもが騒いでいるこの面白さに目を向けていきたいというのが、このスコラ・ルームの一つの意志です。

子どもが持つ『センサー』と社会を分断する『サービス化』

山下さん:
子どもは、いわば社会の高性能な「センサー」なんです。大人が見過ごす社会の変化や、ちょっと怖いもの、突飛なものにこそ、彼らのアンテナはビビッと反応する。そういったものを想像する力がすごく強い。学校の怪談は一例ですね。子どもが騒いでいることは、大人から見れば「つまらないこと」かもしれないですが、そのざわめきの中にこそ、実は社会の重要な変化の兆しを、感じ取っているのかもしれないです。子どもが何に関心を持って騒いでいるのかは意識しておいてもいいのかな、と思います。

子どもからの「部屋のすみに小さいおじさん(小人)がいる」といった出どころがわからない話をバカにせずに育てている保育者の皆さんのノリの良さや広げ方のようなものがすごく面白いです。

紘良:
見えないものに対して乗っかることは大人同士だとちょっと気恥ずかしいんですよ。
乗り切れないことを、子どもがいることによって乗れるマインドになれるっていうのはかなり幸せな時間だと思います。

山下さん:
明らかに子育てしてから顔の可動範囲や筋肉が変わったように感じます。


保育写真:木に興味が向いているこどもたち(しぜんの国保育園)

紘良:
子どもたちは物質として見えない世界と、現実の物質的な世界のレイヤーがスムーズというか、境目があまり見えないんです。それはおそらく、先ほどお話しがあったように子どもが7年かけて人間になるというところにも現れているのかなと思っていて、死ぬ時もまた昔はレイヤーが曖昧だったのかなと考えます。

例えば今だと、午後何時何分にお亡くなりになりましたと亡くなったポイントを記録しますが、昔はその亡くなった時も四十九日かけて向こうの世界に行く、あるいはもしかすると三回忌や七回忌や十三回忌で死というものが時間をかけて捉えられてたのかと思うと、死や生は今よりももっとアバウトだったのかもしれないですね。

山下さん:
このレイヤーの変化は生活の隅々まであらゆるものが「サービス化」したことが決定的だと思います。保育が国の管轄になってサービス化されることによって、家庭から手放した保育はそっちの世界、家庭でやる育児がこっちの世界という風に分断されたと考えます。昔は生活の中に全部が渾然一体とぐちゃぐちゃに織り混ざっていたはずなのに、それが完全に切り分けられてしまった。

死ですらもそういう意味ではサービス化され家庭の外に追いやられた結果、家族が亡くなった次の日に葬儀屋さんが来て、「どうして亡くなったことを知っているんですか」みたいな話になるわけです。
そうやってサービスとして物事が分離してしまったがゆえに重なりしろが失われてしまった。このことは本当に大きい。

インゴルドは文化は本などにして次の世代に手渡せるようなもんじゃないんだと言っています。現実の世界で折り合いながら作られていくものなので、分離しようがないものだと。サービスが進むほど分離しがちで、折り合えなくなる。だからこそ、そこでどう折り合いを見つけていくか、我々のマインドそのものもどうやって変えていけるか、ということが問われているんだと思います。

今を生きる『子どものインタラクティブ(双方向)な世界観』の存在に、大人は気づけている?

紘良:
分断すると機能の働きかけが一方方向の関係になりがちなんですよね。
保育でも教育でも子どもたちがこうだから、これができないとなる。一方方向で成り立っていた世界もあったと思いますが、21世紀になって急にインタラクティブ(双方向)な関係が子どもたちの中で主流になってきています。遊びに関しても一緒に遊ぼうとみんなで無邪気に参加していた時代から、今は一人一人の遊びが別であり、別の遊びがそれぞれ関係しあって、深まっていき、それを楽しんでいくような保育を目指しはじめているんですよね。それは大人がそういう風にやりましょうと言ったわけではなく、子どもたちから一方方向では収まりきらないという世の中になって、大人の教育の仕方が変わってきたと僕は思うんですよ。

WORKSIGHT26号ではないんですが22号のゲームの世界の話を読んで、保育の話は少しゲームの世界に近いなと思っています。例えば一方向のゲームだとドラゴンクエストは物語が単一の流れの中で生まれてきて楽しい。その楽しさもあるんだけども、最近はインタラクティブ性がゲーム界の中でもかなり主流になってきて、ロールプレイングゲームとしてもオープンワールドで自分なりの関係性を自由に世界の中で結んでいって、それが一つの道筋になるといったことを念頭に置かれたゲームが多いと思います。
そういうことを考えると、やっぱり子どもたちは社会の縮図をしっかりと感覚的に捉えているのかもしれないなと思いました。

山下さん:
20世紀はゲームの時代でインタラクティブにいろんな世界を自分でシミュレーションしたり、作り上げていくという双方向性がある社会が作られました。ゲームというものが、あらゆるジャンルで応用されていくと、そこから紡ぎだされる社会観、人間観がガラッと変わるのでは、と作ったのがゲーム号だったのですが、そのゲーム的な世界観で物を見れている親が、果たしてどれだけいるでしょう。

一方で、保育は教育的な文脈で扱われ、いまどきの保育園説明会では「こんな教育します」と目的に一直線に向かうための保育を強調するようになっています。子どもが新しいインタラクティブな世界に進もうとしている話と、親の目指す方向にギャップを感じませんか?

紘良:
大きなギャップがありますね。
確かに稽古ごとで伸びるものがあるんだけれども、それは必ずしも子どもたちが望んでいないこともあり、保育のしづらさみたいなところに直結してくると思います。

山下さん:
その先にどういう世界が広がってるんだよということが、親の方に想像力がないと、ついつい子どもが楽しんでるところは一旦置いといて、うまくいきそうなレールの上に乗せがちだと思います。私も反省はもちろんあります。

紘良:
今度、保護者会でオープンワールドのゲームを一緒にみんなでやりましょう。

山下さん:
本当にやったほうがいいですよ。お互いのことや世界がこういうふうに広がるということがよくわかります。


過去の『亡霊』と向き合い、子どもが持ち合わせる『遊び心』が組み合わさって生まれる『創造性』

ライヴ・パフィーマンスの前に、井手健介さんを交えて、山下さんと齋藤紘良の3名にて鼎談。
創造性を発揮している最中の感覚について語っていきます。

紘良:
井手さんの2ndアルバム『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』(2021年)は、1974年の幻のミュージシャンという設定の下で作られた、壮大なごっこ遊びみたいなアルバムだと感じています。
このアルバムを作ろうと思ったきっかけ、経緯を教えてください。

井手さん:
2ndアルバムを作る時にプロデューサーの石原洋さんと「本当に君が好きでやりたいことは何か」という話になりました。本当はロックがやりたいけれども、自分の声はカッコつけてもカッコつかなくてロックスターにはなれないと思っていたのですが、「やり方次第でできる」となり、自分が本当にやりたいことをすることにしました。

まずは、ロックをするにあたって過去やロックの名人など、今は亡き偉大な幽霊たちと向き合いながら「今自分たちがロックをするならどうしたらいいのか」ということを考えました。そして、井手ではなくて別のキャラクターを作ろうと話が進んでいき、井手健介を逆から読んだ「エクスネ・ケディ」というキャラクターを作りました。
「エクスネ・ケディ」を容器のような形で機能させて、昔のロックへのリスペクトや自分たちの解釈を詰め込みながら新しいものを作るっていうやり方になりました。

紘良:
なるほど。その容器は自由に何でも入れられるものですね。
井手さんの映像やライブ見ていると繊細な感じの歌い方をしている一方で、やってることはふざけている。真剣に遊んでる子どもに近い印象を感じました。空っぽの容器によって遊びが発動しているように感じます。

そうやって別のものの存在になっていくっていうのは、映画とか演じることの映像の世界でもあり、井手さんは音楽家でもあるけど、一方で映像監督でもあります。映像の世界と先ほどの何かを演じきるところの感覚は繋がっているんですか?

井手さん:
基本的には全く一緒で、自分はただ容器としてそこにいて、音自体からイメージのようなものを受ける時間は、自分とその対象しかいないと感じます。自分の中にある幼児性をどう感じるかというのが1つと、大人の自分が「あのイメージとあの映画をつなげてみたらどうなるんだろう」という欲求の2つで少しずつ形を作っています。
過去の映画の亡霊とそこにある題材が結びつく間に僕がいて、あとはそれらが出会ったらきっとうまくいくという感覚で作ってますね。

柴崎友香さんの著書『あらゆることは今起こる』の中に「現在と未来の時間が自分の中に同時に流れているという感覚がずっとある」という内容があって、僕以外の人も同じように感じている人がいたんだと驚きました。

紘良:
過去、現在、未来が同時に、というキーワードはWORKSIGHTにも出てきましたよね。

山下さん:
WORKSIGHTは時間というものが根底にテーマとしてありまして、特に強く出ているのが18号のゾンビ特集です。万博の社会的な意義について、誰しも口を閉ざしてしまうように、いまや未来というコンセプトが消失しかかっています。そこで、空前のゾンビブームがくるわけですが、基本的にゾンビ=過去が襲ってくるということなんです。哲学者ジャック・デリダが唱えた憑在論という言葉がありますが、簡単に言えばいつまでも過去の要素が世の中に漂っているということで、それはネットの世界を考えると理解しやすい。

昔のWebサイトは消そうと思っても履歴は消せず、ずっと過去が生き続けていますよね。あらゆる時間がなだれ込んでくる、現代人はそんな感覚を持ちながら日々を生きていると思います。

「真空パック」状態の集中感覚でつくる、泥だんごのように

紘良:
僕も井手さんと近い感覚です。井手さんの作品は過去から呼び戻されたものの合わせ方のセンスが素敵なのですが、なんでもかんでもつなぎとめてゴテゴテしたものから削ぎ落として調整しているのですか?

井手さん:
最近自分が尊敬するアーティストに話を聞くのが好きで、音楽や映像を作っている時どういうモードなのかなどを聞いています。僕は9割ぐらい毎日不安でもうダメなんじゃないかと思っていて、自分を褒めることもあまりないからこそ、自分はただの器という感覚がずっとあるのかもしれないです。

他のアーティストから話を聞いて気付いたのは、偉大なアーティストは自分の中の幼児性を失わずに幼児性と付き合うことができるということと、(仮にミュージシャンだったら)まずミュージシャンである前にいいリスナーであるいうことです。

映画でも、例えば映画監督の黒沢清さんは、映画を撮る前に過去の映画をとにかくたくさん見るそうです。そこから「世の中にはすでにこんなに素晴らしい映画がもうあるのか、自分がもうやることは何もないじゃないか」と打ちのめされて、それでもその先に自分がやるのはこれだ、と考えられる人だけが映画を撮ることができると思う、という話をしていました。

つまり良いリスナー、良い鑑賞者である必要があり、それがあって初めて批評的にものを作ることができると思います。自分の幼児性と鑑賞者としての自分をうまくミックスできる人が、本当に素晴らしいものを作れているのだと思います。

紘良:
子どもたちにも似た部分を感じます。彼らも歪(いびつ)ですが、自分自身のクリエイティビティと外で起きている面白いことを探して取り入れて、バランスをとっていく感じです。

井手さん:
ある人が幼児性と付き合う時の感覚を”真空パック”の状態と言っていて「これだ!」と思いました。例えば音楽だったら、空気が入る隙間がないくらい、音と自分しかいないという真空パックの状態に入れるかが重要だと言っていて、その状態に入った後に、他の作品との関係性など横の広がりがついてくるらしいです。

例えば子どもが真剣に泥だんごを作るときは真空パックの中に泥と自分しかいない状態に入ってると思います。


保育写真:虫集めに集中するこどもたち(しぜんの国保育園)

山下さん:
時間の流れ方とか集中している状態って、どのような雰囲気なんですか?

井手さん:
その真空パックの時は、時間みたいなものはあんまりないです。
自分とその素材だけで、それ以外は世の中に存在していない状態ですね。
さらに言うと、真空パックの時は自分の頭で考えるより先に手が勝手に動いているような感じです。

紘良:
仏教用語で「無分別智(むふんべつち)」という言葉があり、他者と自分の境目がなくなって感じる瞬間のことを言います。まさに意思が頭にあるのではなくて、手の中にも、指の中にもあって、外にも自分の意思があって、それが繋がり合って溶け込んでいるその瞬間が「無分別智」です。子どもたちも、考えたりする前に体が動いてしまって、なんかフワーって前に乗り出しちゃう感じですね。

山下さん:
その話を聞いて思い出すのは、文化人類学者 岩田慶治の『人馬一体になるためには「鞍」が必要である』という話です。2つの物体が一体化するためには何かインターフェースが必要という意味で、例えば子どもが何かに夢中になることや、ミュージシャンがギターや音楽と一体になるとき、その間には舞台やセッティングなど場の状況というインターフェースがあります。道具立てや環境というものへの意識が大事で、そこがないと人間は集中できないのかもしれませんね。


次回、2025年8月9日に「SCHOLA GARDEN(スコラ・ガーデン)」を開催します。

▼詳細・チケットはこちら
https://schola-garden2025.peatix.com

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